シドニー湾攻撃の話を知っていますか
2007年 08月 29日
先日ニュースで観た「シドニー湾攻撃 初の日豪合同慰霊式典」の文字。
そんなことがあってなんて、まったく知りませんでした。
調べてみると、こんな記事を見つけました。
『特殊潜航艇シドニー湾に出撃す』
『シドニーに響いた海ゆかば…特殊潜航艇62年後の慰霊 』
特殊潜航艇というと、「回天」などの人間魚雷的な特攻を思い浮かべますが、
まったく違った特殊潜航艇というものがあったんですね・・・
昭和17年5月31日深夜、シドニー湾に近づいた母艦から3隻の特殊潜航艇が出撃する。
特殊潜航艇は防潜網をかい潜り、シドニー湾の奥深くに入って攻撃を開始した。
湾内にあった豪州軍の艦艇は突然の攻撃で大混乱に陥る。
ところが松尾大尉・都竹兵曹の特殊潜航艇に機械トラブルが発生。
魚雷の発射が不可能となった。そこで松尾敬宇は決意する。
「体当たりで本懐を遂げる」
松尾艇は波状攻撃を受けて破損、浸水し、海中に消える。
そして、都竹兵曹と共に艇内で自決。享年24。
豪州海軍の兵士・将校らは強い衝撃を受け、予想もしなかった大胆不敵な作戦行動に心胆寒からしめると同時に、日本海軍兵の勇敢さに深い感銘を覚えた。
シドニー地区海軍司令官のムーアヘッド・グールド少将は、一部で上がった反対の声をものともせずこう言った。
「あの鉄の棺桶のようなもので出撃するには最高度の勇気を必要とする。
彼等の持っている勇気は、いずれの国民の特質でも、伝統でも、遺産で
もない。(中略)これらの勇士は最高の愛国者である。オーストラリア人の
幾人が、日本の勇士の千分の一の覚悟を持っているだろうか」
同年6月9日、散華した4人の勇気に敬意を表し、海軍葬の礼をもって弔う。
葬儀は丁重に行われ、4つの棺は美しい日章旗に包まれていた。
8月13日、四人の勇士の遺骨は戦時交換船「カンタベリー号」で東アフリカの
ロレンソマルケスへ運ばれ、「鎌倉丸」に移乗して10月9日に横浜港へ到着した。
オーストラリア軍が、なぜ敵である日本兵に手厚い海軍葬を行ったのかは、この特殊潜航艇によるシドニー湾攻撃より4ヶ月遡った戦いにあるそうです。
昭和17年1月、日本の陸軍はマレー半島南部の山岳地ゲマスで数日間に渡る激戦を繰り広げ、双方に多くの戦死者を出した。
その戦闘後に、日本軍が敵であるオーストラリア軍を武烈を賞賛し、異例の行動を取ったそうです。
その様子がシンガポールの歴史教科書の中で伝えられているそうです。
「オーストラリア兵達の勇気は、日本兵、とくに彼らの指揮者によって称賛された。
敬意のあかしとして、彼らは、ジェマールアンのはずれの丘の斜面の、オーストラリア兵
200人の大規模な墓の上に、1本の巨大な木製の十字架をたてることを命じた。
十字架には『私たちの勇敢な敵、オーストラリア兵士のために』という言葉が書かれていた」
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以前このブログでも伝えた『知らなかった戦争の話』
でも語られた、言うなれば軍人の中に生きる「武士道」みたいなものでしょうか。
敵兵の葬儀をするなどとは、まずありえない出来事なのではと思いますが、そこには軍人だけしかわからない共通した心情があるのでしょう。
もう二度と戦争はイヤです。
しかし、こういうニュースを聞くと、少しだけ心が救われたような思いがします。
戦争をしていた国同士が、憎しみを超え手を取り合って平和に取り組めればいいですよね。
『特殊潜航艇/松尾敬字』
by chobimame
| 2007-08-29 21:57
| 時事