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8月は戦争の話し中心です。


by chobimame

決定版 男たちの大和


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昭和十六年十月、極秘のうちに誕生した、不沈戦艦「大和」の予行運転が初めて行われた。同十二月、太平洋戦争突入。そして戦況が悪化した昭和二十年四月六日、「大和」は三千三百三十三名の男たちを乗せ、沖縄への特攻に出撃した。日本国と運命を供にした「大和」の過酷な戦いと男たちの人生を、丹念に、生々しい迫力をもって描く、鎮魂の書。
新田次郎文学賞受賞作。








昨年、戦艦大和の話が映画になりましたね。
先日もテレビで放映されていたので、ご覧になった方も多いと思います。
映画では思っているより戦闘シーンが多くて、人の心情というものがどれだけ伝わったのかな?という感じあったので、本を読んでみることにしました。
この本は、当時大和に乗っていた人たちや軍事資料から取材したルポルタージュが元に構成されたノンフィクション作品です。
上巻では、大和の出撃までの経緯や、大和での様子が書かれています。
下巻では、運命の水上特攻の様子から生き残った兵隊たちの心情や、戦後どう生きたのかが書かれています。

戦闘シーンは無論ですが、それよりも登場人物(実在した人物)各個人の生活背景や心情がよくわかる作品でした。
とくに、下巻は大和から生還した兵隊たちの戦後を追っており、彼らの戦争は終戦で終わったのではなく、死ぬまで続いていたという事が克明に書かれてあります。
戦争賛美でもなく、お涙頂戴ものでもなく、冷静な視点で大和に乗ることとは?戦争とは?日本人とは?という事が書かれているように思います。
下巻の最後に、『戦艦大和乗組員戦没者名簿』『第二艦隊司令部戦没者名簿』が載っています。
この名簿を見るだけでも、命の重み、戦争の惨さが伝わってきます。


ここに、生き残り、取材の中心となった方たちの言葉などを抜粋しておきます。


=三笠砲員長=
三笠は慰霊祭と聞くと、どこへでも飛んで行く。ときどき商売のほうを忘れてしまうが、妻は、あなたの生き甲斐なんだからと笑っている。
「生き残った者はどうでもいいの。だけど、死んだものは生き還らない。彼らはね、何のために死んでったか、どう思って死んでったかと思うとね、何かしなければとウロウロするの。生き残った者は、やはり重い荷をしょって生きなきゃと思うとる」
~中略~
「最近は、大和会に入ってくる人が多うなった。一人でおることが淋しゅうなるのでしょう。年をとるというのはおかしなもので、若いときはできるだけ逃げたいと思った四月七日に遠回りして回帰していく。やはり、わしにとっては、大和は青春だものね」
三笠は軍歌をうたったことがない。とくに「海ゆかば」は、葬式の歌なので、聞くのさえつらいと思っている。


=内田兵曹=
呉海軍病院では、両足の手当を受けた。鉄片の他にも弾も出てきた。のどの手術も受けている。手術は死ぬかと思うほどの苦しみだった。内田の体には麻酔が使えなかったからだ。レントゲンをとると、体は蜂の巣のようになってる。麻酔をかけると、体がぼろぼろになり、かえって助からないと言われた。内田の妻は戦後、大小あわせて100回近い手術を受けていると語っている。どの手術も麻酔が使えなかった。
~中略~
内田の体は麻酔がかけられず、レントゲン照射もすでに限度を超えている。あと何回手術をするのか、いつまで生きつづけるのか、内田自身にもかわらない。130余の鉄の破片が体内をめぐっている。自分の体でありながら何か別の不思議なものによって生かされている気がしてならない。
~中略~
(あとがきより)
東シナ海の戦艦大和の沈没海域に、ヘリの上空より内田貢氏(兵曹)の散骨が行われた。平成十六年四月七日のことで、大和が沈没してちょうど五十九年目にあたる。
二年前の三月七日に亡くなられた内田氏のたっての遺言に因った。
娘の牧子さんが鹿児島県枕崎よりチャーターした八人乗りのヘリに乗って、父の遺言を実行されたのである。
この二年余、東シナ海の大和の沈没地域へ行くことに奔走した牧子さんは、こう言っている。
「亡き戦友のところに父の遺骨を帰さなくては、私の昭和は終わらないのです」
そこで、大和の沈没した海域に着くと、「内田兵曹、ただ今、帰りました」
ヘリの窓より父に代わって敬礼し、「長生きをさせて頂き、ありがとうございました」
と、亡き戦友たちに礼を言うと、ハンカチに包んだ父の骨を海に流した。


昭和二十年三月二十八日、戦艦「大和」、沖縄海域に向け呉を出撃。
乗組員三三三三名。
四月七日十四時二十三分、米航空機部隊の攻撃により、沈没。
北緯三〇度四三分〇七秒、東経一二八度〇四分二五秒。
死者三〇〇〇余名、東シナ海の海底に眠る。
生存者、昭和六十年現在、一四〇余名。


*これは、取材当時(昭和60年)の数字です。
2004年現在では、生存者の140名の方から70数名の方が幽明界を異にしたそうですから、2007年現在では、その数字を上回っていることでしょう。


ぜひ一度読んでみて頂きたい本です。

『男たちの大和(上・下) 決定版』

『女たちの大和』
大和の乗員家族(女性)の立場から追ったノンフィクション作品。
こちらもお勧めです。

『大和ミュージアム』
軍港としての呉の歴史などや造船の科学技術などの紹介

『戦艦大和』
大和がどういう船であったかが書いてあります。



=追記=

『慰霊というのは、大和で生き残った者たちが、大和での死者たちを忘れずにこれから生きていくことだと思っている。私はね、大和は生きておるだんと強く言いたい。神州不滅という言葉がありますね。戦友たちはこれを信じて亡くなった。私は彼らの尊い犠牲の上に、今の日本の繁栄があると思っとります』
清水芳人副砲長
「東海地区戦艦大和会」会長



なぜこの女は、こんなに戦争の話をするのか?
それは私自身にもわからない。
人に前世というものがあるとしたら、私は戦の経験があるのかもしれない。
私は戦争の話を読み聞きしていると、どこか 体の一部が削がれるような心持ちになる。
そして、まるでその場所な立たされているかのように断片的なシーンとなって頭を過ぎる。
それと同時に何か心の底に沸々と湧き上がる怒りと悲しみに突き動かされるのだ。
それは戦争が抱える理不尽さなのか、正義感から来る怒りなのか、はたまた両方なのかはわからない。
理屈ではないのだ。
ただこの事実を一人でも多くの人に知ってもらいたいと切に願う。
これらは知らないまま朽ちていく話では到底なく、現代を生きる私たちが真実を知り、平和を築いて行くことが、死んでいった彼らへの最大の報いになり、餞(はなむけ)になるのではないだろうか?
戦死した彼らの、戦争で死んでいった人々の声を聞いて欲しい。
明日の平和のために。

戦争で亡くなられた兵隊の皆さんに哀悼の意をあらわす共に心から敬礼を捧げる。
by chobimame | 2007-05-23 21:39 |