祖父の思い出と慰霊の島
2006年 08月 24日
小学生だった私が、夏休みの1ヶ月間を祖父の家で過ごしていた時の話です。
しばらく顔を見せない大学生の従姉妹が真っ黒な顔で外国のお土産を持って現れました。
「どこに行ってきたの?」と質問する私に「サイパンだよ、海がキレイだったよ~」と答え、周りにいた祖母や叔母たちに、サイパンでの夏の思い出を楽しそうに話していました。
すると、今まで黙って聞いていた祖父か「お前はあの島に遊びに行ったのか?あの島はどんな島だと思っているんだ?」と言いました。
従姉妹は浮かれた様子で「ハワイより近いし、海はキレイだから最高だよ!」と言いました。
祖父は従姉妹の顔を真っ直ぐに見つめ「あの島は、水着を着てチャラチャラと遊びまわる島じゃないのだぞ。あれは慰霊の島だ」と静に口を開らき「あの島は、それは悲惨な激戦地で日本の兵隊や民間人が玉砕したのだ。まだ何万という日本人の骨が埋まったままの島なのだ。お前は、そんなことも知らずに・・・恥ずかしいことだ」と続けました。
温厚だった祖父の厳しい顔に、従姉妹も俯いてしまい、そして、従姉妹を遊びに行かせた叔母も怒られていました。
そして、祖父は私にも言い含めるように「いいか?サイパンやグァムは観光地になっているかもしれないが、大勢の日本人が死んだ事も知らずに遊びに行くところじゃないのだぞ。あの島は、兵隊さんのお墓みたいなものだ。みんな万歳と言いながら死んでいった島なのだからね」と、私の頭に手を撫で寂しい目を向けました。
祖父が言った「たくさんの兵隊さんが死んだ」という言葉の響きが、小学生の私をなんだかとても悲しい気持ちにさせました。
その場面だけが、まるで何かの映画の1コマのように未だに残っているのです。
私の祖父の右足の太腿には、かなり大きな十字の傷跡がありました。
祖父は兵隊として戦った時に受けた銃弾の後だそうです。
戦地でのことですから、物資も乏しく、医療も粗雑だったのでしょう。
かなり大きなヒキツレた傷跡でしたが、その傷が出来た闘いについては、
祖父はあまり語りたがらなかったようです。
さぞかし祖父にはツライ戦争の記憶だったのでしょう。
私の記憶の中で祖父の一番印象的だった事は、ちょっとした小さな物音でもすぐにパッと目を覚ますことです。
これは長い軍隊生活で身についたのだと言っていました。
戦地では、小さな物音や気配に敏感にならなければ命取りになるので、熟睡なんて無縁だったのでしょう。
悲しい習慣というべきなのか、とにかく祖父は寝起きが異常に良かったという印象でした。
そんな祖父は、絶対に軍歌は歌いませんでした。
昔は宴席などで酔って歌う人がいたものですが「軍歌は宴会で酔って歌う歌じゃない」と、
席を立つような人で、テレビなどでも軍歌が流れると涙ぐむような人でした。
軍歌を歌いならが、たくさんの戦友たちが死んでいったそうです。
そして、戦友会などにも行きたがらなかったそうです。
「生きて帰ってきたヤツラが、今頃手柄話に花を咲かせても仕方がない。そんな事を自慢する為の戦友会はいらん」と祖母に話していたそうです。
祖父の戦争に対する思いは、私には計り知れません。
きっと私達が想像出来ないほど、過酷で悲惨で悲しい思い出だったのしょうから。
あまり積極的に戦争について語りたがらなかった祖父ですが、他界してしまった今では、もっと聞いておけば良かったと思います。
そして平和になったと言われるこの国への思いも・・・
「玉砕」と聞いて、パッと浮かぶのは「サイパン島」なのですが、もっと多くの島でたくさんの日本人(兵隊、民間人)が玉砕してるいのには驚かされます。
それ程、当時の軍部は迷走していたのでしょう・・・
1943年5月29日:アッツ島守備隊玉砕
日本軍損害 戦死 2638名、 捕虜 27名
1943年11月22日:ギルバート諸島マキン・タラワ守備隊玉砕
1944年2月5日:マーシャル諸島クェゼリン環礁守備隊玉砕
1944年2月23日:マーシャル諸島ブラウン環礁守備隊玉砕
1944年7月3日:ビアク島守備隊玉砕
1944年7月7日:サイパン島守備隊玉砕
日本軍損害 戦死21,000名、 自決8,000名、 捕虜921名
1944年8月3日:テニアン島守備隊玉砕
1944年8月11日:グァム守備隊玉砕
日本軍守備隊2万名のうち、戦死者1万8千余名
1944年9月7日:拉孟守備隊玉砕
1944年9月13日:騰越守備隊玉砕
1944年9月19日:アンガウル島守備隊玉砕
1944年11月24日:ペリリュー島守備隊玉砕
1945年3月17日:硫黄島守備隊玉砕
戦死者20,129名(島民から徴用された軍属82名)。捕虜 1,033名
1945年6月23日:沖縄守備隊玉砕(指揮官の自決により組織的戦闘終了)
戦死者 約19万人(うち10万人は民間人)
-サイパン島玉砕について-
当時の日本軍は、米軍に比べ物資や人員の不足、そして米軍の最新鋭の兵器に戦局は困難を極めていた。海軍は「あ号作戦」を発動し、マリアナ海域で米艦隊に決戦を挑んだが、レーダーやVT信管などの新鋭兵器を備えた米軍の前に大敗を喫した。
6月11日から米軍による空襲が始まり戦局は悪化の一途を辿り、ついに6月24日サイパン島は放棄された。
7月6日、第43師団長・斉藤義次陸軍中将、中部太平洋方面艦隊司令長官・南雲忠一海軍中将、海軍第五特別根拠地隊・辻村海軍少将ほかの司令部は「自決」し、翌7日、残存部隊約3000名に総攻撃を命じ日本軍は、最後の「万歳突撃」を敢行して玉砕して果てた。
-バンザイクリフ-
サイパン島最北端の岬で、太平洋戦争中、日本軍司令部がサイパン島北部にあり、9日アメリカ軍の激しい戦闘で、追い詰められた日本の兵士、民間人の多くの自決者が「天皇陛下、万歳」と叫んで両腕を上げながら身を投じたのでこの名が付いた。
自決者の数は1万人にのぼるとも言われていて、海は血で真っ赤に染まり、死体の海と化した。
この話を知れば知る程、どう表現して良いのか判らない程、悲しくやるせない気持ちになります。
行きたくない・・・しかし行かなければならない戦争・・・
国を家族を愛する人を守りたい一心で死んでいった兵隊・・・
最後にバンザイと言いながら敵に突撃し、バンザイと言いながら身を投げ死んでいった人々・・・
その心情を思うと言葉が出ません。
当時、日本は「一億玉砕」の精神で戦っていました。
兵隊から民間人までが1人になって全力で戦い、名誉・忠節を守って潔く死ぬことを決意していました。
そして、捕虜になり辱めを受けるくらいなら自決を選び、女、子供は、アメリカ兵に陵辱をされる前に自決しろと教育されていたのです。
それは、この平和の時代しか知らない私達が批判できる話ではありません。
ただ私達の出来ることは、もう2度と過ちや戦争を繰り返さないということです。
こんな不幸で哀れな死に方をする人を2度と出してはいけません。
戦争は、人を平気で殺します。
数多くの人を殺さなくては意味がありません。
しかし、敵も味方も命はひとつです。
戦死した兵士や民間人の家族の悲しみは、国が違っても同じです。
そして戦争が終わっても、国や人の心には大きな傷跡が残ります。
戦争には1つも正しいことはありません。
*追記
玉砕または、戦闘のあった島々に眠る日本人兵士や民間人の遺骨に関して、日本政府主導の遺骨収集事業は、61年経った今でもまだまだ遅れており、遺族などの民間ボランティアの協力なくしては活動出来ない状況です。
省庁の予算水回しや公共事業の無駄使い吟味されずに気前よく吐き出されるODAなどなど・・・無駄に使う予算があるなら、国の為に死んでいった人々の為に国は遺骨収集に予算をもう少し投じるべきだと思いますが、どうしても死んだ人は後回しになるようで、とても情けない気持ちになります。
早くしないと遺族さえも亡くなってしまう年月です。
急がないといけない時期に来ています。
帰りたくても帰れなかった・・・
異国の地に眠ったまま日本へ帰れない彼らの無念さを考えると悲しいです。
みんな日本へ帰りたいでしょうから・・・。
「殉 國 之 碑」-玉砕の島-
(太平洋戦争のことが詳しくかいてあるHP。玉砕の項目を表示しておきます)
by chobimame
| 2006-08-24 21:35
| 時事